『美しく怒れ』(岡本太郎著/角川書店)vol.198
本日の一冊は
『美しく怒れ』(岡本太郎著/角川書店)です。
ノーブレス、です。
自分に「タグづけ」をしないと
落ち着かない人も多いことでしょう。
自分のことをどう名乗るか?
自分はいったい何者なのか?
前にもお伝えしたことがありますが、
世間がジミー大西さんの絵を
もてはやし始めた頃、
ある人が彼に手紙を送ったのです。
「まだ紙の大きさを気にしているね。
紙の大きさなんて気にしなくていいんだから!」
と。
手紙の主は、岡本太郎。
「自分の肩書きは人間だ!」
といってまわりを困らせた(?)方ですね。
最近、思うのです。
純粋な眼こそ、
最大の武器なのではないでしょうか?
どんな優秀なコンサルタントも
素人の本質をついた質問に、
ハッとさせられた経験があると思うのです。
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http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4041100240/withup-22/ref=nosim憤り、己をつらぬき、表現することこそ、
最も純粋な人間の証しである。世の中がつまらない、と言うのは、自分がつまらないことなのだ。
究極は、純粋に凝視する眼である。
まさに、そういう眼こそが現実を見すかし、
現実の秘密を激しくえぐるのだ。「伝統」とは、過去ではない。瞬間、瞬間に
現在の自分を通して創り上げてゆくものである。他を発見するということは、自分自身を発見することであるし、
また他は発見されることによって新しい自己に目ざめる。日本のおじぎも適切にきまると、ドキッとするほどいいものだ。
思想というものは、まもり貫くことにおいてある。
それは、ほとんど常に一般の情勢とは悲劇的に対立する。
しかし、その対決によって、世界は充実するのだ。今日もないし、明日もない。今だ。
自分は自分であると同時に、みんなである。
みんなであると同時に自分なのだ。いったい子供は「絵」を描いているのだろうか。
「絵」ではないのだ。自分の若々しい命をそこにぶちまけている。人間はその数だけ、それぞれ、その姿のまま、
誇らしくなければならない。おおらかに遊ぼう。真剣に、命がけで。
人間は孤独であればあるほど、逆に他を意識する。
生きてきた以上、死ぬことに賭けなきゃいけない。
でなければ生は輝かない。私が本当に言いたいのは、自分を超え、逆に本当に生かすことなのだ。
参照:
『美しく怒れ』(岡本太郎著/角川書店)
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というわけで、
▼「共感・意外性・感動」の法則を解き明かす!
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├○
├○ 専門家になりすぎていないか?
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岡本太郎さんは、
リーダーにはノーブレス(高貴)をもとめたそうです。
パートナーであった
敏子さんの言葉も印象的でした。
「責任ある立場にいる者は、権威を握っているだけ、
その分だけ危険を背負わなければならない。
それが、ノーブレス・オーブリージュ(高い立場に伴う精神的義務)だ」
と。
お恥ずかしながら、私はようやっと
ノーブレスの意味が腹落ちした次第です。
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危険から逃げてしまい、
立ち向かわなければ、
権威はない。
人間として美しくない。
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かなり、刺さりました。